「マイナス金利政策の採用と功罪」植田論文(SAJ OCT.2016より)

2016-10-14

「マイナス金利政策の採用とその功罪」(植田和男 東京大学大学院経済学研究科教授、元日銀政策審議委員、証券アナリストジャーナル2016年10月号)

植田教授は、日銀政策委員を勤めるなど実務にも精通した経済学者。マイナス金利政策についての分析、評価は傾聴に値する。植田論文の要旨を誤解を恐れず簡単に示し(正確には原典を参照のこと)、私見を述べたい。 

植田論文の要旨

QQEに対する外人投資家の『思い込み』

植田教授は、「日銀は・・・量的には異例の規模に達するQQE(量的質的金融緩和)を実行してきた。当初はこうした政策の有効性に対する外人投資家の『思い込み』もあって予想を上回る円安・株高が発生したものの、その実体経済への波及は、国内経済主体のインフレ期待、更には成長期待(自然利子率)の低迷により限定的である。このことが投資家の『思い込み』そのものにも冷や水を浴びかせつつある」とし、QQEの効果に懐疑的であり、そもそも2013年来の円安、株高もQQEに対する「外人投資家の『思い込み』」と手厳しい見方を示している。

ゼロ金利政策による銀行収益の圧迫と経済への悪影響

「政策効果の発言に時間がかかっているうちに、長期国債買い入れを中心に政策継続性の可能性に対する懸念が頭をもたげてきた」とし、「こうした環境下で実行されたのがNIRP(Negative Interest Rate Policy: ゼロ金利政策)であるが、長期間にわたった非伝統的金融緩和によってギリギリまで落ち込んだ預貸利鞘に苦しんでいた金融機関には厳しい政策変更となった」とし、銀行収益を圧迫させることによる経済への悪影響(の可能性)について言及する。 

日銀の自己資本毀損の懸念

さらに、「低迷する成長期待のため、NIRPは長期国債買いオペと相まって、・・・長期、超長期債利回りの予想以上の低下をもたらし、長期国債買いオペによるプラス領域での金融緩和余地が消滅しまった」とし、金融政策が手詰まりになりつつあることを示す。そして、「買い入れ額の一段の引き上げは、ほとんどの年限でより深いマイナス金利での日銀の買い入れを意味し、日銀の収益、ひいては自己資本に重大な阻害要因となる」とし、日銀のバランスシート、信用力に対する懸念に言及する。

適正な株価形成への悪影響

「更なる金融緩和の余地が閉ざされたわけではない」とし、銀行による手数料徴収等による預金金利の引き下げ、日銀によるマイナス金利での金融機関向け貸出、ETF買入の増額をあげている。しかし、「これは日銀自己資本へのリスクだけでなく、市場機能への負の影響という大きな問題をはんらんでいる」とし、ここでも日銀の信用力、さらに適正な株価形成が損なわれることへの懸念を示している。

ヘリコプターマネーとハイパーインフレ

そして、「以上のような追加金融緩和余地の低下を背景にいわゆるヘリコプターマネー論が盛んとなっている・・・ヘリコプターマネーとは強力な拡張財政を金融政策で支える(極端に言えば赤字国債を中央銀行が引き受ける)政策である」とし、「ヘリコプターマネーの実行可能性は、金融政策ではなく財政政策をどの程度緩和的に運営できるかどうかという点に帰着すると考えるべきだろう・・・やはりこの政策の実行のために動くべきは財政サイドだということになるだろう」とする。

植田教授の基本的な主張、警告は、「ヘリコプターマネーは過去のほぼ全てのハイパーインフレーションの原因である。したがって、仮に首尾よくインフレ率の引き上げに成功したとしても、適度の水準で停止できるかどうかには大きな疑問符がつく」ということである。

私見

踏み込むべきでなかったが簡単に後戻りできないNIRP

植田教授のNIRPについての見解は的を得たものであると思う。第一に銀行収益への圧迫を通じた経済への悪影響、第二に日銀の自己資本毀損の懸念である。これは日銀の信用力低下、通貨価値に対する信認の喪失につながることを意味すると言って良い。NIRPに踏み込まざるを得なかったのは日銀の政策の手詰まりを象徴している。「カンフル剤」はあくまで「カンフル剤」であり、ここまで踏み込むべきでは無かったのではないか、というのが率直な意見である。「カンフル剤」に「カンフル剤」以上のものを期待するのは誤りである。しかし、一度、踏み込んでしまった以上、簡単に後戻りはできない。これ以上、傷を深くしないようにすることが重要であろう。

禁じ手のヘリコプターマネー

ヘリコプターマネーについての指摘は真に的を得ている。日銀が市中消化された国債を(日銀券の大量発行を伴わずに)購入しているうちは、国内外を問わず貯蓄に裏打ちされたものであり、通貨価値の下落の懸念は低いといってよいだろう。しかし、大量の日銀券発行を伴う日銀による国債の直接引き受けは、通貨価値の失墜につながるだろう。繰り返しになるが植田教授が指摘するように「ヘリコプターマネーは過去のほぼ全てのハイパーインフレーションの原因である。したがって、仮に首尾よくインフレ率の引き上げに成功したとしても、適度の水準で停止できるかどうかには大きな疑問符がつく」。つまり、2%のインフレ目標などというのは絵に描いた餅であり、コントロールの効かないインフレ、通貨価値の下落に結び付くであろう。

カンフル剤としての役割を果たしたQQE

QQEに対する評価については植田教授の見解に異論をとなえたい。2013年、14年の円安、株高を外人投資家の「思い込み」とする指摘は当たらないだろう。その理由は2つある。第一は、当時株価はバリュエーションから見て、極めて割安に放置されていた、ということがある。日経平均は第二次安倍内閣発足前、総選挙直前には9,738円と低迷していた。平均PERは14倍、平均PBRは1倍を切っていた。J-REITについて言えば、東証REIT指数は1064、分配金利回りは4.5%程度、NAV倍率も1倍を切っていた。ドル円為替レートは83円台、10年国債利回りは0.7%というレベルである。特にPBRの面からの割安感が強かったといえる。

第二は、当時の投資家としての視点からすると、適正レベルに回復するには金融政策面からの「カンフル剤」が期待されていたのである。もともと流動性のわなに陥った、ないしそれに近い状態での金融政策の効果には限界があることは知られたことである。但しそれが為替レートに作用する場合はその限りではないことになる。ここでのキーワードは「カンフル剤」である。

現在、日経平均は16,700円レベルで、当時の1.7倍、予想PERは14.2倍、PBRは1.2倍というレベルである。J-REITについて言えば、東証REIT指数は1791で当時の約1.7倍、分配金利回りは3.6%、NAV倍率は1.3倍レベルである。つまり、QQEはカンフル剤としての役割は十分果たしたといえるであろう。また、バリュエーション面からいうと、PERはほぼ横ばいであるが、PBRは20%強上昇したことになる。逆に言うと、株価が1.7倍となり、PERが横ばいということはこの間、収益が回復しているのである。

難しい適正な為替レート水準の推定

為替レートについてはどの水準が適正であるかを推定することは難しい。極論すれば、国際収支がバランスするレベルが適正な為替レートということになる。為替レートは貿易収支、経常収支だけでは決定されず、極めて流動的な資本収支に大きく左右される。そもそも近年の激しい為替変動は為替レートが物の動きではなく、資本の動きに左右されるからである。QQEは金利の低下をもたらした。自然利子率が一定と仮定すれば、名目金利の低下は、為替レートにインパクトを与えるであろう。それが120円への円安に繋がったという推論が可能である。これがいかにも大きすぎるとする植田教授の指摘は妥当かもしれない。従って現在では100円台の為替レートに落ち着いているといるのかもしれない。但し、適正為替レートの推定は難しい。大まかに言えば購買力平価により適正水準が推定されようが、為替レート自体が購買力に影響を与えるため、購買力が独立変数として為替レートを説明するというシンプルなものではない。さらに、金利、経済成長率等他の要因が加わる。

今後の課題はQQEの副作用をどう抑えるか

QQEは「カンフル剤」以上のものでも以下のものでもない。QQEは上記のようにカンフル剤の役割は十分果たしたといってよい。それ以上のものを期待することは適切でない。NIRPには踏み込むべきでなかったと考えるが、一度踏み込んでしまった以上、簡単に後戻りはできない。今後は、NIRPを含めQQEの副作用をどうやって抑えるかに課題は移っているといえるだろう。

期待されるのは期待経済成長率の上昇

最後に付け加えるならば、今後の経済政策のポイントは期待経済成長率の上昇である。現在の株価の停滞、円高傾向は当初に期待されたアベノミクスによる日本経済の期待成長率の高揚、それを可能にする実行力に対する失望とまでは言わないにしても、疑問符の表れであるといってよい。言い換えればポイントは金融政策から、規制緩和を含めた期待成長率を高める諸策、その着実な実行、実行力に移っていると言えるだろう。

以上

2016.10.14

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