常盤台住宅地4つの地図から読み解くユニークさ

中湖 康太

常盤台住宅地4つの地図

分譲開始の昭和11年から終戦直後の昭和21年まで常盤台住宅地には以下の通り4つの地図があります。

1. 東武鉄道直営常盤台住宅地案内図 昭和11年
2. 東武鉄道直営常盤台住宅地案内図 昭和12年5月
3. 東武鉄道直営常盤台住宅地案内図 昭和14年4月1日現在
4. 常盤台町内地図 常盤台学生会調査部 1946(昭和21)年6月1日現在

東武常盤台分譲地としゃれ街ときわ台・景観形成重点地区常盤台

1.から3.は東武鉄道による販売用の案内図であり、4.は常盤台郷会(町会)の子息たちがメンバーとなった常盤台学生会調査部が作成した町内地図です。地図の対象となっている地域(エリア)は、1~3は同じです。4もほぼ同じですが、恐らく地図作成の便宜上若干の拡張があります(北側富士見街道沿い等)。

現在の東京都しゃれ街条例街並み景観重点地区、板橋区景観形成重点地区のエリアに比べると東西南北の4角が欠けています。つまり常盤台という街の良好な景観形成の観点から、東京都のしゃれ街条例・街並み景観重点地区、板橋区の景観形成重点地区はその対象エリアを広げているのです(都・区の対象エリアは同一)。

東武鉄道はもともと幻におわった西板線(西新井と上板橋を結んだ路線)の車両基地として昭和2年に土地を買収しました。この4角はその時に買収できなかったエリアを多く含んでおり(恐らくほとんどすべて)、特に北東エリアは常盤台の一大特徴であるブロムナード(街を一周する遊歩道)完成のために、街路設計上できれば買収したかった地域ではないかと推定されています。

これら4つの地図を見ていくと分譲後10年の常盤台住宅地の推移とその特徴をおおよそつかむことができます。

当初のターゲット:中産階級サラリーマン

第1の分譲開始時(昭和11年)の地図は、住宅地518区画、商店55区画、住宅地は10区画が契約済となっています。住宅地の規模は、100坪以上120坪未満(100坪台)が29%と一番多く、次いで90坪台20%、80坪台15%、110坪台13%・・・170坪台1%(不明2%)と続きます。「東武鉄道は開発に先立ち、購入者のターゲットを中産階級に設定していた」[1]のです。東武鉄道が売れ筋を模索する中で、後年、区画規模の拡張が行われます。そして、多区画購入者が増えていくことになります[2]

「実際に購入が可能な人は、その設定よりかなり上層に位置していた人びと」[1]だったのです。それは、東武鉄道の目算が誤っていたということよりも、戦時体制に突入していくという当時の時代背景による影響が大きいと言えます。その理由は後述します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2の昭和12年5月の地図では、大まかに言って4分の1が売却済となっています。この時点では、基本的に区画割の変更は行われていません。

 

 

 

 

 

 

 

敷地規模の拡大

第3の昭和14年4月の地図では、住宅地413区画、商店75区画と、区画割が変わっています。つまり、東武鉄道が販売努力を行い、売れ筋を模索する中で、規模の拡張が行われているのです。最大規模も210坪台1%(不明7%)となっています。

「昭和11年においては敷地規模が100坪以下のものは45%、100〜150坪で47%とほぼ同様な割合を占めている。次に昭和14年においては100坪以下が18%、100〜150坪で65%となっている。このことから100坪以下の比較的小さな区画が新たに100〜150坪に拡張されていったことが分かる・・・昭和14年には契約済は267区画に増加し、全体の65%程が売却されている。この中で2区画購入が15件、3区画購入が3件みられる。しかしなお150区画程が売れ残っており・・・」[3]

これについては2つの理由が考えられます。第一は、実際の購買者層が、当初東武鉄道が当初ターゲットにしたのが中産階級中層だったとすれば、実際の購買者は、中産階級上層に属する人々ではなかったか、ということ。第二は、戦時体制に移行する中で、軍需産業優先の資源配分と物資の高騰による建築費の増大により、住宅を建築することが困難になっていったのではないか、ということです。これについては後で検証したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

戦時体制、物資価格の高騰により住宅建築が困難に

第4の昭和21(1946)年の地図は、常盤台学生会調査部が作成したものです。

「昭和21年の『常盤台町内地図』は・・(中略)・・この資料では以下の2点が注目される。まず第1点は更地が非常に多かったことである。住宅の全413区画中100区画が更地であり、ほぼ4分の1を占めていたことになる。戦時中、これらの土地は「農地」として使用されていたようである。

「次に第2点は、多区画購入者が多かったことである。昭和14年の段階でも見られたが、昭和21年に至って更にその傾向が強まっている。2区画購入が30件、3区画購入が6件、4区画購入が2件、5区画が1件となっており、合わせて91区画あり、こちらもほぼ4分の1を占めているのである。更地については購入者が不明であることから、多区画購入者は実際には更に多く存在したと考えられる。以上のことから昭和21年において住宅地全413区画に対して258棟の住宅が建っていたことが変名した。このうち65棟が建売住宅であった」[4]

 

 

 

 

 

 

 

富裕層による需要:多区画購入者の増加と農地としての利用(戦中)

上述したことにも重なりますが、多区画購入者が増加した背景には、3つの理由が考えられます。第一に、戦時体制への移行、突入により物資が高騰し、土地に対して建築費が大幅に上昇し(逆に言えば、土地価格の相対的減少)、住宅建築が困難になったこと。第二に、物資、特に食料の不足により農地としての土地需要が増大したこと、第三に、購買層がいわゆる土地を自己の居住用とする中流サラリーマンではなく、更地、農地として購入する富裕者層となったのではないか、ということです。

実際の分譲状況については、東武関係者によるインタビューで次のように語られています。

「当時の売れ行きというのは非常に悪かったです。こういう模範住宅でありながら、かなりの年月をかけて全部売りました。やはり、経済的な条件でなかなか。全部売り切れたのは戦争中くらいまでかかったんじゃないかと思います・・・結局、10年くらいかかったですね」[5]

そしてお屋敷街となった ー 後の展開への示唆

昭和14年4月の時点で約65%が売却済となりました。この65%の土地には住宅が建築されたでしょう。以後、戦時体制が益々強化されたこと、物資価格の高騰があり民間住宅の建設は困難になります。「昭和14年に公布された『木造建築物統制規則』により、実質的には30坪以上の住宅の新築が不可能となった」[5] のです。「戦前の常盤台住宅地には更地が多く、住宅は総区画に対して70%程しか建っていなかった」[6] とあります。

したがって戦後までに売却された残りの約30%の区画(土地)は、自己居住用ではなく、更地として保有することのできる層、また敗戦色濃い戦争が続き食料不足が深刻する中、農地用途として購入する需要者に限られていくのです。戦争末期には農地利用目的の需要は現在考える以上に強かったのかもしれません。

そして、実は多区画購入者が多かったということは、単に土地の細分化、ミニ開発を招くということだけではとらえられない、常盤台住宅地のその後の変化に深い関係を持つようになるのです。この点については別途述べたいと思います。

いずれにしても、結果的に土地保有者の平均敷地面積は当初想定よりも30〜40%程(推定)大きくなり、それが後日「お屋敷街」と呼ばれる高級住宅地となったのは皮肉ともいえるかもしれません。

[1] 「常盤台住宅物語」(板橋区教育委員会、平成11年3月17日発行)p.30
[2] 同上   p.14-15
[3] 同上   p.15-16
[4] 同上   p.109
[5] 同上 p.16
[6] 同上 p.38

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2018/4/10

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