常盤台の強み-質的・量的に優れたアーバンデザイン

中湖 康太

田園調布、成城、常盤台

常盤台は戦前開発された高級住宅地のひとつとして数えられますが、全国的な知名度や名声において田園調布に、学園都市としての雰囲気や人気度において成城には及ばないと言えるでしょう。

専門家の評価が最も高い常盤台住宅地

しかし、常盤台の強みは、戦前に開発された郊外住宅の中で「都市設計、都市デザインの観点からみて最も美しく、優美にデザインされた住宅地は常盤台である」[1]と都市計画専門家が評価する都市設計上の質的、量的な水準の高さなのです。いわば「知る人ぞ知る」魅力であり、専門家による評価の高さであると言ってよいでしょう。

プロムナード、クルドサックに象徴される「曲線を多用した街路パターン」[2]については、これまで何度か触れていますので、ここでは割愛し、量的評価(公共用地率)について触れたいと思います。

優れたインフラ – 高い公共用地率 23.9%

公共用地率というのは土地区画整理事業の対象面積に対して道路、公園、その他の公共用地にどれだけ割り当てているかを示す指標です。減歩率といわれることもあります。つまり、土地区画整理事業の面積のうち実際に住宅地に割り当てられるのは、道路、公園、その他の公共用地を除いた部分です。

常盤台をデザインしたのは1934(昭和9)年に東京帝国大学建築学科を卒業し、内務省都市計画課第二技術掛に配属された小宮賢一氏です。設計にあたって上司(建築担当の本多次郎技師)より、①宅地の規模は一戸当たり100坪程度とし、別に店舗用地を二カ所程とること、②地区内を一巡する散歩道(プロムナード)をとり、地区総面積の3%に相当する公園用地、他に学校用地をその散歩道沿いに取ること、③道路率は20%程度とする、との指示を受けたとのことです。[3] 

実際の道路率は20.7%であり、公園2.6%、その他0.6%を合わせると公共用地率は23.9%との資料が残されています。[4]

越沢氏は、『デザインという質的評価以前にインフラ整備水準の量的評価において常盤台以降の東京の宅地開発は水準が低いものが多かった』[5]と述べています。

都内有数の駅前ロータリー

この高い公共用地率は、まずは広々としたときわ台北口駅前ロータリーに立ち体感することができます。ゆったりとしたヒマラヤ杉、ケヤキを湛えた駅前ロータリーは常盤台の最大の魅力のひとつです。東京近郊では私鉄は勿論、JRを含めても有数の優美な駅前ロータリーと言ってよいでしょう。

田園調布の公共用地率は18%(開発分譲時)

これに対して、田園調布の公共用地率は18%です。「東京急行電鉄50年史」に以下の記述があります。

『このなかで、特に多摩川台地区(田園調布)の住宅街については、渋沢秀雄の欧米視察があずかって大きな力があった。渋沢秀雄は、大正8年に入社早々欧米を一巡して、田園都市や衛星都市などを視察した。その結果、パリの凱旋門のエトワールという環状線と放射線が交錯している形式とし、「町ぐるみ公園」というイメージで緑地・公園・道路の面積をできるだけ高率(18パーセント)にとることとなった。欧米諸都市の道路率に比べると、18%ではまだ低いが、当時のわが国の分譲地は平均5パーセント以下で、これに比べると高率であった。』[6]

田園調布の名声は何と言っても「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一の提唱により開発された日本で初めての田園都市であることにも由来しています。開発を行った田園都市株式会社は、東急の母体となった企業であり、東京と横浜を結ぶ東急東横線沿線にあるという都会的イメージも寄与していると言って良いでしょう。

教育家が設計開発した街 – 成城

成城は、「郊外住宅地の系譜」[7]で酒井憲一氏は次のように述べています。

『成城、玉川両学園町は一人の人物の強力な個性と実権によって取りしきられた点に著しい特色がある。つまり、その個人色抜きにしては、両学園と住宅の系譜は語れない。その人物が教育家の小原国芳氏である』[7]

『学園は広い敷地と静かな環境を求め、遠心的な移動、新設で発展していく傾向がある。・・・東京の西郊を見ても、大正14年の成城学園、昭和4年の玉川学園のほか、大正13年に大泉(練馬区)、14年に国立(国立市)、小平(小平市)などの学園町が開発された。このうち成城と玉川は学園建設資金の調達を第一目標にし、学園後援会か学園が開発者となり、どちらかといえば素人っぽい図面工作的開発となっている』[8]

『用地の買収、分譲には、小田急(小田原線)の急行停車場をつくる予約をとりつけるのが先決であると判断し、・・・小原氏が利光鶴松小田急社長に会った。そして、渋る小田急に対して、「会社は停車場の敷地1800坪を坪3円で買い、学校は5円で買うことにしてはどうか」と提案、この交渉を成立させた』[8]とあります。

阪急の小林一三が創設した鉄道事業と宅地開発の相乗効果を生み出すビジネスモデルの学園版(学校事業と宅地開発)と言えるかもしれません。いずれにしても小原氏の優れた発想と実行力なくして成城学園住宅地は無かったと言えるでしょう。

成城の道路率 14.3%

そして、街路デザイン、道路に関連して次のような記述があります。

『ここで、道路についてみると、まず碁盤の目状に整備された。駅から一直線に北上する通りを沢柳通り、学園正門から伸び、沢柳通りと交差して西進するイチョウ並木を小原通りとした。主要道路である。

『これらは他の道路と同様、三間幅で計画したのを途中から左右一間ずつ買い戻して拡幅、施工したため、良心的という評判が立ったという。しかし見方によっては計画が不十分だったことにもなる。小原氏は札幌の大通りを見、ワシントンの話を聞いて、拡幅する気になったと書いている。

『また十字路の四隅は切り落とし、歩行者の見通しをよくした。これは今でも隅切りと呼ばれ、車の安全通行に役立っている。

『こうして「住宅地総面積37万余坪、内道路総面積5万2,800余坪(3間ないし6間道路)、下水の総延長12万23町余りの市街地に準ずる道路及び下水道を持つ整然たる区割整理が行われた」と記録されたのである。』[9]

つまり、成城の道路率は開発当時14.3%(=52,800/370,000)だったことになります。

後発の利 常盤台住宅地

常盤台住宅地の開発分譲は1936(昭和11)年であり、田園調布の1923(大正12)年、成城学園の1925(大正14)年に対し最も後発です。当時の東武鉄道の総帥根津嘉一郎は、先行事例を超える住宅地開発を目指したと思われます。内務省も、これを東京の都市計画を担当する行政機関として自らに蓄積されたノウハウを発揮する良いチャンスとみたのです。

内務省が提案したデザイン

常盤台住宅地を設計した小宮賢一氏が越沢氏に宛てた書簡に次の記述があります。

『或る日上司の本多次郎技師(建築担当、後に芝浦工大教授)から、これを好きなように書き直してみろ、と渡されたのがこの区画整理でした。本多さんは、これが新駅設置に伴う住宅団地造成という滅多にない計画なのに、平凡な碁盤目割りの設計だったので、見習いの私に教材という参考案を書かせ、これを送付して再考を促そうと考えたようです。』[10]

内務省の提案に 我が意を得た 東武鉄道社長・根津嘉一郎

越沢氏はまた次のように述べています。

『常盤台では当初の設計(陳腐な碁盤目の区画割)で一部、宅地造成が開始したが、理想的な街づくりをめざす社長(根津嘉一郎)の意向で一旦白紙に戻し、内務省と都市計画東京地方委員会の全面的な指導の下で、設計をやり直したのである。』[11]

つまり、常盤台住宅地のデザインはむしろ内務省が提案し、先行事例を超える街づくりを目指していた東武鉄道根津嘉一郎社長がこれに意気投合し採用したものということになります。

常盤台住宅地の質的、量的に優れたアーバンデザインはこうして出来上がったわけです。

半永久的なインフラの強み

地価の高騰で敷地の細分化、ミニ開発、建て詰まり等の脅威にさらされているのが、戦前に開発された都市近郊の高級住宅地であるといって良いでしょう。

しかし、常盤台住宅地の優れた住宅地としてのインフラ、端的には高い公共用地率は、そういった脅威があっても、ほとんど変わることがありません。つまり常盤台住宅地のインフラの強みは半永久的なものです。

質的、量的に優れたアーバンデザインこそ、常盤台住宅地の最大の強みであり、魅力といってよいでしょう。

2018/4/16

中湖康太

© kota nakako, gcs

[1] 「東京都市計画物語」越沢明著、日本評論社 1991、p.95
[2]  越沢前掲書 p.104
[3]  越沢前掲書 p.102
[4]  越沢前掲書 p.103 表④戦前の東京の区画整理の事例より
[5]  越沢前掲書 p.103
[6] 「東京急行電鉄50年史」東京急行電鉄株式会社、1957、p.54
[7] 「郊外住宅地の系譜」『成城・玉川学園住宅地』酒井憲一著、1987、鹿島出版社 p.238
[8]  酒井前掲書 p.238-240
[9]  酒井前掲書 p.245-246
[10] 越沢前掲書 p.100-101
[11] 越沢前掲書 p.98-99

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