根津嘉一郎と田園都市思想

中湖 康太

根津嘉一郎と田園都市思想の関わりについて述べたいと思います。

根津嘉一郎、晩年の事業である常盤台住宅地開発

常盤台住宅地開発は根津嘉一郎の晩年に行われた事業です。常盤台住宅地の分譲は昭和11年秋に始まりますが、根津嘉一郎は4年後の昭和15年1月に79才で逝去します。郊外住宅地開発は「鉄道王」と呼ばれた自らが取り組むべき残された事業だったといえます。但し後発だったこともあるのでしょう沈黙を保っています。現在も東京都のしゃれ街条例や板橋区の景観形成重点地区に指定される景観に優れ、都市計画専門家の評価が高い住宅地であるにも関わらずです。この点についてはより詳しく稿をあらためて記したいと思います。

渋沢栄一を団長とする渡米実業団への参加

根津嘉一郎は明治42(1909)年に渋沢栄一を団長とする渡米実業団に、東京商工会議所議員、東武鉄道株式会社社長、衆議院議員として加わっています。8月17日、横浜港から出帆し、シアトルに到着、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスを含む米国主要都市約20都市を訪問、ホノルルを経由して12月17日に横浜港に帰るという日米実業界親善の船旅約1か月、米国滞在約3か月に及ぶ長旅です。

この時、欧米の、そして渋沢の「田園都市」構想に触れたと推定されます。これが後年、常盤台住宅地の開発に繋がった要因のひとつと言えるでしょう。但し、この時点で事業に結びつける発想はありませんでした。

渋沢の田園都市構想

渋沢栄一は、この後大正4(1915)年10月に4度目の渡米をしていますが、4度の欧米視察の中で、田園都市への思いを深めていきました。4度目の渡米前にすでに田園都市づくりの企画検討を始めており、帰国後、田園都市建設を決意したといわれます。[1]そして、大正7(1918)年9月に田園都市会社が設立されます。

欧米の田園都市思想を紹介した内務省

欧米で田園都市ブームを引き起こしたエベネザー・ハワードの「明日の田園都市」(”Garden Cities of To-morrow”)[2]が出版されたのは1898(明治38)年です。そして、”Garden City”を「田園都市」と訳し、日本に欧米の田園都市を紹介したのは内務省です。井上友一ら内務省地方局有志による『田園都市』は明治40(1907)年に博文館から出版され反響を呼びます。同書が渋沢の田園都市構想に影響を与えたであろうことは容易に想像されます。渋沢を団長とする渡米実業団に参加し、根津が渡航するのは、この2年後の明治42(1909)年です。

内務省に設計を依頼した根津嘉一郎

常盤台住宅地を設計することになったのは内務省都市計画課でした。「常盤台は都市計画の行政プランナーが設計し、また行政と民間の一致協力の下に誕生した唯一といってよい住宅地である」[3]という点が常盤台住宅地の特徴であり、ユニークさなのです。

「当時、区画整理の認可権は知事にあったが、実際は認可に先立ち都市計画地方委員会を通して内務省に協議し、細かなチェックを受けることになっていた」[4]のです。都市計画地方委員会は、大正8(1919)年11月27日に都市計画法の指定により、全国の道府県で設置された内務省の出先機関です。内務大臣の監督に属し、会長は地方長官(知事。ただし、東京地方委員会にあっては内務次官)、日本の各地(都道府県)の都市計画を指導していました。

社会貢献事業

この渡米により根津には社会貢献事業ということが意識されるようになります。根津は著書『世渡り体験談』の中で次のように記しています。

『どの地を訪れても、自分の住んでいるところを世界一だと自慢する人々、 建造物の全てが土地の有力者の寄附金により建てられていること、女子が会 社の事務仕事に携わっていること、会社での用談が極めて短時間で行なわれることなど……。』

根津は、大正10(1921)年9月、財団法人根津育英会を設立、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線) の東長崎駅近くに土地を買い求め、大正11(1922)年、武蔵高等学校(武蔵大学の前身)を開校します。

教育事業を鉄道事業に結びつけなかった根津嘉一郎

根津は武蔵高等学校を東武鉄道沿線に誘致することはしませんでした。これは東急の五島慶太が沿線開発のために、慶応義塾を東横線沿線の日吉に誘致したことをはじめとする積極的な学校誘致、また成城学園の校長を務め、玉川学園の創始者ともなった教育家・小原国芳が、学園経営を成り立たせるために小田急電鉄の駅を誘致し成城学園住宅地を開発分譲したこととは対照的です。あくまで社会貢献事業として行ったためでしょう。この辺に根津の潔癖さが表れているように思います。

ただし、鉄道事業で先行した分、それを生活産業として、特に不動産事業を事業の中核のひとつとして位置づけることに遅れることになった面があります。東武鉄道の総合生活産業へのビジネスモデルの転換は戦後になるのです。

2014/4/29

© kota nakako, gcs

[1] 「東京急行電鉄五十年史」東京急行電鉄、昭和48年
[2] 1989年に出版されたときは“To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform”(「明日-真の改革にいたる平和な道」) と題されていた。
[3] 「東京の都市計画」越沢明著、岩波新書、1991、p.133
[4] 同上

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