シェイクスピアの快楽1

中湖 康太

シェイクスピアとの出会い「アントニーとクレオパトラ」

今年はシェイクスピア没後400年という。シェイクスピアとの出会いは、ある人に連れられて小学生の時に、エリザベス・テーラー主演の「アントニーとクレオパトラ」のリバイバル(?)を見た時だと思う。その時はその芸術的価値や魅力を味わうにはいたらなかった。映画のスペクタクルが、おぼろげに記憶に残るのみである。同作品の最も素朴な解釈は、絶世の美女にしてエジプト女王クレオパトラに溺れたアントニーの悲劇、といったところだろうか。ただ、(映画に連れて行ってくれた)その人は、陸戦の雄アントニーを自らの得意とする海戦に引き込み、かつクレオパトラの誘惑に動かされないオクタウィアヌス・シーザーという人物が凄いのだといっていた。

「マクベス」の観劇

中学生の時に学校に連れられて「マクベス」の観劇をした。この時は、シェイクスピアというのは学校が生徒に見させるほど凄いのか、と思うと同時に、スコットランド王ダンカンを殺して王位についたマクベスと、それを促がしたマクベス夫人が、罪の意識から生じる妄想に悩まされた末、結局は倒される、因果応報の教訓染みた話しだなとも思った。と同時に、やはり人を裏切るような悪いことをしたら結局は、他が裁くのではなく、自滅していくのだな、とおぼろげながら感じた。

シェイクスピアとの再会

それから、シェイクスピアとは遠ざかる。シェイクスピアに再び会う、というか意識的に向き合うのは、ロンドン勤務になった30才前後の時であろうと思う。イギリスに来た以上、世界的な文豪であり、古典であるシェイクスピアに取り組もうと思った。ビデオ、オーディオで4大悲劇や、「夏の夜の夢」、「終わりよければすべて良し」などを何回か見たり、聴いたりした。しかし、シェイクスピアの本当の素晴らしさというものは理解できなかった(今でも本当に理解しているとはいえないだろう)。ただ、ハムレットなどを聴いていると、その奔流ともいえる言葉の響きはすごいな、と感じたことは事実である。一方、シェイクスピアが大文豪といわれるわりには、そのストーリーはプルタルコスの『英雄伝』とか他の作品、伝説等から拝借しているのが多く、何故これほどまでに文豪とされるのか、ある意味で不思議に思っていた。この時の取り組みもここで頓挫する。

その後、シェイクスピアに取り組むのは、今から34年程前のことである。問題意識は、「シェイクスピアの凄さは一体何なのだ」というものである。シェイクスピアの全作品を聴き、シェイクスピアの全作品(37戯曲。現在は40戯曲とされているようである)を演劇、DVD等で見た。死後何百年たっても、本場英国のグローブ座は勿論、世界で、演劇され、映画化され、DVD化され、オーディオ化され、リメークされ、ネタとされている。

ゴーストライター説

シェイクスピアにはゴーストライターがいた、という説がある。あのような、素晴らしい芸術を貴族でもなく、高等教育を受けていない人間が創作できるわけがない、というのがその根拠だろう。ただ、天才(才能)というものは文字通り、天から与えられるものであり、人間がつくるものではないのだ、と基本的には思う。そして、シェイクスピアの作品が、歴史上のシェイクスピアに本当に書かれたかどうか、ということは、ある意味、観客、聴衆にとってはどうでも良いことであろう。問題は、その作品が素晴らしいかどうかである。とはいえ、歴史上のシェイクスピアと実作者は同一であると私は思う。また、歴史上のシェイクスピアが、ここまでヒーローとなったことがむしろ興味深い。おそらく、作品の素晴らしさと歴史上のシェイクスピアの間には、何か絶妙な歴史的偶然があるのかもしれない。

「シェイクスピアは劇作家である前に詩人だった」

シェイクスピアに取り組んでいるうちに『あらすじで読むシェイクスピア全作品』(河合祥一郎著、祥伝社新書)に出会った。これは、シェイクスピアの全作品、戯曲40作と詩編5作をわずか249ページとコンパクトにまとめたものである。シェイクスピア劇には多くの人物が登場し、その関係やストーリーも入り組んでいる場合があり、鑑賞にあたってとても便利である。

それよりも重要なことは、同書は「シェイクスピアの素晴らしさ、その凄さは一体何なのだ」、という長年の疑問に重要な解答のひとつを与えてくれたことである。

「シェイクスピアは劇作家である前に詩人だった。たとえ戯曲を書かずともその名を英文学史に残したであろう・・・」と河合氏は言う。そして、「シェイクスピアの言葉は詩である」とする。あの膨大な作品群、台詞の(ほとんど)全てが、韻をふんだ詩であるというのである。河合氏は、シェイクスピアの韻律の特徴として、①弱強五歩格(iambic pentameter)、②二行連句(rhyming couplets)、③オクシモロン(oxymoron)をあげている。シェイクスピア劇の豊穣なる台詞の全てが、韻律にのって滔々と語られる、観客は劇を観ると同時に言葉の音楽を聴いているのである。

理解する前に感じる

シェイクスピアとの付き合いは、長くまた疎遠になることもしばしばであった。しかし、その中で、ひとつ大切にしてきたことがある。それは、シェイクスピアを理解する前に、まず感じとるということである。

(つづく; to be continued.) 

2017/2/9

 

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